煩悩baby

僧侶による ソウルフルな あいうえお

フルチンになりたい

f:id:andymizuki:20190102132908j:plain2019年、僕はフルチンになりたい。

新年早々、物理的なフルチンの話をしていない。概念的なフルチンの話をしている。

かのプロレスラー中邑真輔はこう言ったのだ。

〝おしっこを漏らす感覚〞で試合をしてるんですよ。心も解放してやる、感覚を開きまくる、フルチンになる。 

中邑真輔は、感覚を開きまくって闘うことを例えて「フルチン」と表現した。これが概念的なフルチン。

この言葉に出会い、目が覚めた。真輔はまじブッダなのだ。

 

昨年、会社を退職し、煩悩クリエイターとして活動してきた。

文章執筆の仕事から、イベント企画、YouTuberもしたり。「フリースタイルな僧侶たち」というメディアのWeb編集長も任せてもらうことにもなった。色々やっている。やりすぎている。

それでも、心にモヤモヤを感じてしまうのは、だんだんと自分自身を「固定化」させてしまっているからだろう。

「僧侶で文章を書く人。たまにイベントや動画に出演する人。」

なんだか、おもしろくない。いや、もちろん普通の僧侶のイメージからしたら十分おもしろいんだろうけど、自分が満足できていない。

YouTubeで乳首晒していても満足しないカラダになってしまった。大変だ。

仕事ももらえる。面白い企画の提案も飛んでくる。取材の依頼だってくる。それでも、なんだか人生に渇きを感じてしまう。

仏教では、そんな心を「渇愛」といって苦しみの原因だなんて言う。渇きを感じるのは自分の心次第だと。

だとしたら、僕は僧侶のくせして依然として煩悩まみれだ。それでも、この渇きが創作の原動力になっているのも事実。

そんな矛盾エンジンをもう積んでしまっている。今は苦しみがあったとしても、煩悩の赴くまま突き進みたいのだ。イメージは、メスに求愛するオスイノシシ。

だから、自分自身を「僧侶」という像に閉じ込めたり、自分が作り出してきた「コンテンツ」という枠にハメるのは、もうやめにしたい。

僕にとって仏教は、信仰というよりも背骨と言ったほうがしっくりくる。

世の常識を疑い、固定観念にとらわれず、本質を考え、実践していく。そんなフリースタイルな姿勢こそが僕の伝えたい仏教だ。

中邑真輔の「フルチン」発言に心踊ったのは、こんなモヤモヤを抱えているからだった。2019年の合言葉はフルチン。フルティ〜〜〜〜〜ンポ。