フルチンになりたい
2019年、僕はフルチンになりたい。
新年早々、物理的なフルチンの話をしていない。概念的なフルチンの話をしている。
かのプロレスラー中邑真輔はこう言ったのだ。
〝おしっこを漏らす感覚〞で試合をしてるんですよ。心も解放してやる、感覚を開きまくる、フルチンになる。
中邑真輔は、感覚を開きまくって闘うことを例えて「フルチン」と表現した。これが概念的なフルチン。
この言葉に出会い、目が覚めた。真輔はまじブッダなのだ。
昨年、会社を退職し、煩悩クリエイターとして活動してきた。
文章執筆の仕事から、イベント企画、YouTuberもしたり。「フリースタイルな僧侶たち」というメディアのWeb編集長も任せてもらうことにもなった。色々やっている。やりすぎている。
それでも、心にモヤモヤを感じてしまうのは、だんだんと自分自身を「固定化」させてしまっているからだろう。
「僧侶で文章を書く人。たまにイベントや動画に出演する人。」
なんだか、おもしろくない。いや、もちろん普通の僧侶のイメージからしたら十分おもしろいんだろうけど、自分が満足できていない。
YouTubeで乳首晒していても満足しないカラダになってしまった。大変だ。
仕事ももらえる。面白い企画の提案も飛んでくる。取材の依頼だってくる。それでも、なんだか人生に渇きを感じてしまう。
仏教では、そんな心を「渇愛」といって苦しみの原因だなんて言う。渇きを感じるのは自分の心次第だと。
だとしたら、僕は僧侶のくせして依然として煩悩まみれだ。それでも、この渇きが創作の原動力になっているのも事実。
そんな矛盾エンジンをもう積んでしまっている。今は苦しみがあったとしても、煩悩の赴くまま突き進みたいのだ。イメージは、メスに求愛するオスイノシシ。
だから、自分自身を「僧侶」という像に閉じ込めたり、自分が作り出してきた「コンテンツ」という枠にハメるのは、もうやめにしたい。
僕にとって仏教は、信仰というよりも背骨と言ったほうがしっくりくる。
世の常識を疑い、固定観念にとらわれず、本質を考え、実践していく。そんなフリースタイルな姿勢こそが僕の伝えたい仏教だ。
中邑真輔の「フルチン」発言に心踊ったのは、こんなモヤモヤを抱えているからだった。2019年の合言葉はフルチン。フルティ〜〜〜〜〜ンポ。