煩悩baby

僧侶による ソウルフルな あいうえお

なぜライターをしてるのか、僧侶なのに。

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いつもびっくりされるのだが、僧侶だけど、収入のほとんどは書き仕事である。

寺(実家)からの収入はほとんどなく、出版社や編プロからのお布施(原稿料)だけで生活をしている。

どうも外からは、そんな僧侶の様子が奇妙に映るようで、

「僧侶なのにそんなことしてていいんですか?」とよく尋ねられるのだが、説明するのが面倒くさいので、最近は「ポスト瀬戸内寂聴なんです」とだけ答えるようにしている。みんななぜか納得する。

そんな書き仕事も本格的に始めて、約一年。

最近では、複数の大手出版社から、連載や出版の依頼が頻繁に来るようになった。
(こうやって、自慢話を真正面からすると逆に自慢っぽく聞こえない現象もあるが、気をつけてほしい。今のは自慢をしたかったので自慢をしている。ちなみに「自慢ではないが」から始まる話も100%自慢である。)

でも、ふと思う。

なんでライターをしているのだろう

自分でも不思議だ。なんでこんなことになっているのだろう。

最近では「読モライター」という言葉があるように、キラキラした存在としてライターという職業が語られることも多い。しかし、元々ライターに憧れていたわけではない。

文章が好きというわけでもない。本は普段からほとんど読まない。書き仕事をしている人間の中で最も本を読んでいない自信がある。せいぜい読むのはタレントのコラム本くらい。

書くのも毎回苦悩の連続だ。インタビューの書き起こしをしているときなんかは、父親の足の匂いを嗅ぐような感覚。我慢して毎回乗り越えている。

それでも、文章を書いているのはなぜなのだろう。

そりゃもちろん、書き仕事を頼まれるからに他ならないが、自分の問題として「文章を書く」という行為はどう心に映っているのだろうか。

よくわからないので、今を見つめ直してみようと思った。

 

初めて味わった「承認」

今思えば、何ひとつ得意と言えるものがなく、煮え切らない人生を過ごしてきた自分が、初めて承認された瞬間、それがブログだったのだと思う。

大学院1年生のときに生まれて初めてブログを書いた。

 という音楽サイトの書き手に憧れた僕は、

「いや、Homecomingsは発音下手なのが素人ぽさがあっていいんだよ!」みたいな切れ味鈍いブログを続けていた。

一日5pvくらいのド底辺ブログだったが、ある時書いた「モーニング娘。の曲を仏教的に解釈する記事」を出したときに、オタクの間でバズり、一気に5万PVくらいまでハネた。

JASRACに摘発されて、今はブログを閉鎖してしまったが、この時のまとめスレに記事の感想が挙げられている。

「泣いた」「感動した」と感想が並んでいるのを見た時、自分自身が初めて承認された気がした。

だって、自分の書いた記事がきっかけで、画面の向こうで泣いている人がいるのだ。

人生の中で、相手を感動させて泣かせたことなんて、たぶん一度もなかった。
思い出す限りでも、付き合ったばかりの女の子にカラオケで「The Biggest Dreamer」を披露したら「元彼を思い出した」って勝手に泣かれてフラれたことがあるくらいだ。

だから「僕の書いた記事で誰かが泣いている」という事実を知ったとき、本当に嬉しかった。やっと自分にしかできないものを見つけた気がしたのだ。

 

他人と自分の感情を共有したい

今でもそうだが、話すのがあまり得意な方ではない。

飲み会なんかの帰りには、「ああもっと話せばよかったなぁ」と後悔することがある。
トークショーの仕事なんかもお願いされることがあるが、毎回「もっと落ち着いて話せばよかった」と反省している。

というのも、自分自身を他人に開示することがそんなに得意ではない。向井秀徳の言葉を借りるなら「自意識恥野郎」なのだ。

小中高大と「明るいいじられキャラ」だったので、コミュニケーションの9割は「やめろや!」で済んでいた。なので、自分にとって会話とは「反応」。自分の感情を表現することはほとんどなかった。

そのせいか、頭や心の中には、ポツポツと言いたいことが募っていった。

それを吐き出させてくれたのが、文章だったのかもしれない。今でもそうだ。文章は自分を表現する上で、最も適したアウトプットなのかもしれない。

 

言葉に感じるコンプレックスと可能性

自分の言葉に自信がない。

コラムやエッセイなんかをお願いされることが多いが、すぐに笑いに逃げたり、知的好奇心を満たすような文脈で書こうとしてしまう悪い癖がある。真正面から、自分の言葉で心を表現することが苦手だ。

だから、一番苦手なのは、法話。僧侶がお寺でよくやるありがたい話。
心に響くような言葉を並べていくのは苦手だ。

どうしても自分が真正面から自分の言葉で語ることに空虚さを感じてしまう。
不真面目な自分が真面目に語ることが、おかしくてしょうがないのだ。

でも、思えば、僕は憧れている人の言葉にいつも影響されてきた。

みうらじゅん「そこがいいんじゃない!」
志磨遼平「右か左か 選ぶ時がおとずれたらめんどうになりそうな方に進め」
道重さゆみ「よし、今日もかわいいぞ!」

無茶苦茶なキュレーションになってしまったが、どれも名言だ。

自分の人生のお供には必ず言葉があった。だから、たくさんの人から言葉を授かってきたお礼として、僕も誰かに言葉を授けたい。苦手なんだけど、それを乗り越えたい。

言葉を仕事にするのは、自分自身の言葉にコンプレックスと同時に可能性を感じているからなのかもしれない。

 

文章に救われてきた

「文章が好きだ」とは言い切れない。

「文章に救われてきた」という表現の方が正しいのかもしれない。

承認と他者とのコミュニケーションを同時に成り立たせてくれた存在だ。

それでも、文章を書いているから自分の言葉に自信が増すわけでもない。言葉ばかりを覚えても、伝えられる情報には限りがある。

イチローの「努力します」と、ヨドバシカメラの店員の「努力します」には、雲泥の差があるのと一緒だ。

自分の持つ言葉の虚無感を拭うためには、まず、その言葉に乗せる物語を自らつくる必要があると思う。そのためにはライターという職から一度離れてみることもありかもしれない。

2019年の目標はフルチンになること。まだまだフルチンまでの道は長い。

 

 

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