胃腸炎で倒れた俺に、ボディーブローし続ける小松菜奈
小松菜奈。
それは、今をときめくトップ女優。
顔が美しいのは言うまでもなく、スタイルもよければ演技力も凄まじい。弱冠22歳。
まさしく、日本女優界が生んだ「バグ」のような存在だ。
この3日間、胃腸炎で死んだような生活をしていた俺は、高熱と腹痛の狭間で「小松菜奈」にたどり着いた。
リアディゾンが黒船なら、小松菜奈は範馬勇次郎だ
「辛いときは小松菜奈」というルーティンが僕の身体には刻まれている。
4年前、小松菜奈ちゃんを初めて見て味わった「完全なる敗北」。この気持ち良さが癖になっているのだ。
順を追って説明しよう。
映画『渇き。』で見た初めての小松菜奈ちゃんは、完全に人類を超えた美しさだった。完全に違う国、いや、違う星、違う次元の存在だったのだ。
もし仮に同じ地球人だったとしても、ずっと遠い向こう岸にいる存在。
同じクラスメイトだったとしても、美しすぎて好意を抱くどころか、声すらかけられない、貸してくれたシャーペンすら握ることもできない存在。俺の遺伝子が容量overで悲鳴をあげていたのが分かった。
味わったのは「徹底的な否定」である。
小松菜奈の小さな顔面と168cmの高身長が俺に問いかける。
「お前はなんのために生きてるんだ?」
もちろん映画でそんなセリフは一切ない。しかし、絶対的な「力」をビジュアルに宿した小松菜奈の姿は、まるでマーライオンのように悠然と僕の脳内に佇み始めた。
「しね」
小松菜奈と俺の間にある絶望的な距離が、僕を否定し始める。心の底に隠し持っていたコンプレックスが小松菜奈の言葉で紐解かれていく。
「きえろ」
劇中の暴力的なキャラも相まって、頭の中の小松菜奈は凶暴性を増していく。
人類の最高値を超えた美しさは、遠くの存在として感じさせると同時に、その距離、1億km分のコンクリートの柱をブン回すがごとく、脳内を暴れまわった。
漫画『刃牙』のキャラクターは「もっと強い敵に会いたい。俺に敗北を味わせろ」とよく言っている。あの感覚に近い。
絶対的な力を前に、自分が弱者であることを認識し、今までの自分が否定される感覚。
擬音語で表現するなら「アヒィアヒィ」である。
俺はたちまち、「小松菜奈を見て、否定される感覚」の虜になった。
思えば、高校生の頃によく友達と「本当に手刀で人は気絶できるのか確かめるゲーム」をしていた。
俺は友達の手刀を首に受け続けたが、一瞬だけ意識が遠のく、あの瞬間がやけに気持ちよかったのを覚えている。
自分は消え去ることに何か強い願望があるに違いない。
『渇き。』以降、次々と彼女の出演作を観続け、彼女の美しさの中に秘めた暴力性に触れては、
「うわぁ、このままブチ消え去りてぇ」と自己否定の快楽に堕ち続けた。
自分を映し出す鏡としての小松菜奈
話を戻すと、3日前から胃腸炎で死んでいた俺は、さらなる病的退廃を極めるため、小松菜奈を求めた。
ただでさえ、腹痛と高熱で意識が朦朧している状態なのに、ここで小松菜奈を注げば、どんなハルマゲドン(終末)ができあがるのか、ゾクゾクしたのだ。
38.2°の高熱の最中、僕はNetflix、Amazon Prime Videoを駆使して、『渇き。』『バクマン。』『デストラクション・ベイビー』『溺れるナイフ』を観て、彼女の美しさにうち震えながら、自己否定に興じた。
ボディーブロー。腸炎で腫れ上がっている俺の腹部をめがけて、小松菜奈は打撃を続ける。
なぜそんなに、美しいのか。
なぜそんなに、二重まぶたなのか。
なぜそんなに、ここじゃないどこか遠くの虚空を見つめるのか。
遠くを見ないでくれ、俺は醜いなりにここにいるというのに。
無視(ネグレクト)は何よりもの暴力だ。
小松菜奈は俺を虫けら扱いもしてくれない。いつももっと遠くの何かを見つめ続けている。
腹が痛い。ケツから口から何かが飛び出そうだ。
小松菜奈は、いつものように1億km分のコンクリートの柱を腹のなかでブン回す。
アヒィアヒィ。
なんで俺はこんなにも小松菜奈に届かないんだ。
なんで俺はこんなにも醜いんだ。
なんで俺はこんなにも小松菜奈じゃないんだ。
小松菜奈のボディブローを受け続けていくうちに、自分は小松菜奈になりたがっていることに気づいた。明らかに、異性として、性的対象としては、小松菜奈ちゃんを観てはいない。
「俺は小松菜奈を通して自分を見ているのかもしれない」
このことに気づいたのは、上記4作品を見終えた後のことだ。体温は38.5°まで上昇していた。
いつも脳内には「鏡としての小松菜奈」が佇んでいた。
小松菜奈を想起することは、すなわち、自分とは絶対的な「対極」を見ることになる。それはすなわち、相対的に自分の立ち位置を確かめることだ。
自分の醜さを、弱者としての自分を認識させる機能が小松菜奈には備わっていたのだ。
その瞬間、脳内で、小松菜奈が、仏像とマリア像と融合していくのが見えた。
古来より、なぜ人は美しきものを物質化しようとするのか。
それは、性的衝動でもなく、自分のものにしたいと願う独占欲でもない。
マリア像に、仏像に、自分を映し出すためなのかもしれない。
同時に、小松菜奈は並んでしまったのだと言える。
ーーーーー仏 マリア 小松菜奈ーーーーー
神々しき、スリーマンセルが今まさに誕生したのだ。
下痢止めの効果は虚しく、トイレを巡礼する生活が続いている。
小松菜奈ちゃんがインスタを始めてくれることを切に願う。
著: