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エゴサーチ・アンド・デストロイ

仏教的視点から「青春小僧が泣いている」の歌詞の意味を解読する

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ついに、2015年4月15日に、モーニング娘。'15の新曲「青春小僧が泣いている/夕暮れは雨上がり/イマココカラ」のトリプルA面シングルが発売される。

その中から、今回は「青春小僧が泣いている」という曲を取り上げてみたい。

青春小僧が泣いている」、恐ろしいタイトルである。

これぞ、ハロプロと言わんばかりのパンチ力に満ちたタイトル。

 

皆さんのご想像通り、作詞(及び作曲)はつんく♂氏である。

これまで様々な話題作を作り続けた鬼才つんく♂

解読不可能なその歌詞は数多くのヲタクを困惑させ、「解析班」と呼ばれる一部の精鋭ヲタが今日も年中無休で解読にあたっていることだろう。
それでも未だ解読されていない歌詞は数多く存在する。

 

解読されたものとして、有名なのが「色っぽいビスケット」である。

この言葉は「色っぽいじれったい」という曲の歌詞なのであるが、

実は、

  1. ローマ神話の知識
  2. ・ヨーロッパの陶芸の知識
  3. ・英語の俗用の知識
  4. ・18~19世紀ヨーロッパにおける芸術の流行

これらの知識がないと理解することができない代物であった。すごいぞつんく♂

詳しくは以下のリンクを参照してほしい。知らない人は抱腹絶倒間違いなし。

 

 今回取り上げる「青春小僧が泣いている」は、一見すると普通の歌詞のように思えるが、実は仏教が裏のテーマにあるのではないかという推測が得られた。

 

以下、歌詞は歌詞サイトで参照してほしい。

  

さて、普通にこの歌詞を見てみると、

若い男の子の青春における失敗(失恋など)を描いた歌であるかのように思われる。

 

でも、もうちょっとだけ歌詞を見てじっくり考えてみてほしい。

 

今回の曲のタイトルは「青春少年が泣いている」でもなく、「青春男子が泣いている」でもなく、

青春小僧が泣いている」なのである。

 

それが何を意味するか。

 

 

「小僧」。

1 仏門に入って、まだ修行中の男の子。年少の僧。雛僧(すうそう)。

2 商店などで使われている年少の男の子。でっち。

3 年少の男子を見下していう語。小僧っ子。こわっぱ。

 

「少年」や「男子」だと、2や3の意味でも通じるが、あえて「小僧」という言葉を使っていることから、

もしかしてつんく♂さんは、1の意味で使っているのではないだろうか・・・・

 

「いやいや!そんな解釈は無理矢理すぎるだろwww」と皆さん思ったことだろう。

 

では、そう思った方は続きを見てもらいたい。

 

青春小僧の歌詞で、どうしても気になっちゃうのが、いろは歌の部分だ。

このいろは歌は、すべての仮名を重複させずに使って作られた誦文として有名だが、

このいろは歌とは元々何であったのかというと、

仏教の経典である『涅槃経』の中の無常偈を表すものとして知られている。

以下いろは歌の解説ページから引用する。

◾️色は匂へど 散りぬるを

(香りよく色美しく咲き誇っている花も、やがては散ってしまう。)

 諸行無常(しょぎょうむじょう)

 

◾️我が世誰そ 常ならむ

(この世に生きる私たちとて、いつまでも生き続けられるものではない。)

 是生滅法(ぜしょうめっぽう)

 

◾️有為の奥山 今日越えて

(この無常の、有為転変の迷いの奥山を今乗り越えて)

 生滅滅己(しょうめつめつい)

 

◾️浅き夢見じ 酔ひもせず

(悟りの世界に至れば、もはや儚い夢を見ることなく、現象の仮相の世界に酔いしれることもない安らかな心境である。)

 寂滅為楽(じゃくめついらく)

 

どうだろうか。「青春小僧が泣いている」、この曲の裏のテーマは仏教であるという推論は間違ってもいないのではなかろうか。

 

では、以下では、仏教的視点から「青春小僧が泣いている」の歌詞の意味について解読していきたい。

 

「君」と「私」の関係

青春小僧が泣いている」の歌詞の世界観において、一番謎に包まれているのが歌詞中に出てくる「君」と「私」の関係である。「私」という一人称が用いられていることから、私目線で描かれた歌であることは間違いないが、曲中ではその「私」像が特殊なものとして描かれていることに気づいた。

 

「私」は「君」に対して、上位の存在にある

「だから私笑ってあげる」「だから私変わってあげる」という言葉から、「君」に対して「私」は優越的な地位にあるということ、もしくは「君」よりも上位の存在であるということが推測される。

また、「君も不安を消して」「どんな時だって安心しているよ私」という言葉から、「私」という存在が不安を抱いておらず、常に心の平穏を保った存在として描かれていることが推測される。

 

このような上位の存在として、歌詞の中で「私」を描くことは極めて特殊である。先述したように、歌詞中では「私」は常に心の平穏を保った存在として鮮明に描かれているが、仏教では、苦の根源を知り、真理を悟った存在のことをブッダと呼ぶ。つんく♂は、「私」をブッダとして描いているのではないだろうか。

 

 「君」が指すもの

「私」がブッダなのであれば、それよりも下位の存在である「君」は未だ悟りに達していない小僧のことを指しているものと推測される。歌詞の内容からも、「君」とは「青春小僧」のことを指しているものだと解読することができる。

また、それは、「何度何回もやり直せる」という言葉からも象徴的である。

 

すなわち、古代インドでは、人間は輪廻転生すると考えられていた。例えば、人間がその在命中に罪を犯したならば、次に生まれ変わるときは人間よりも下位の存在(例えば虫)として生まれ変わる、といったものである。インドの思想では、限りなく生と死を繰り返す輪廻の生存を苦と考え、二度と再生を繰り返すことのない解脱を最高の理想とする。そして、悟りに達し、解脱することこそが仏教の最終目的なのである。

 

話を元に戻そう。「何度何回もやり直せる」という言葉は輪廻転生を意味するのではなのではないだろうか。まだ悟りに達していない小僧が輪廻の苦しみから逃れることができないのは自明である。

 

このように、「私」をブッダ(悟った者)、「君」を小僧(悟りに達していない者)として捉えると、この曲の歌詞の本当の意味があらわとなってくるように思われる。

 

サビの歌詞について

次に、サビの歌詞にスポットを当てたい。

この曲は私目線で描かれた歌にもかかわらず、一番の盛り上がりのサビ部分では、青春小僧が客観的視点から描かれている。サビで用いられる「青春小僧が今日も泣いている」という言葉は「私」から見た「君」を表現し、また同時に、「青春小僧」の状態のみを表現し、そこに何の感情も表現しないことで、「私」と「君」との非常に冷めた関係を表現しているようにもとることができる。

これがただの青春に失敗して泣いている少年の気持ちを歌った歌なのであれば、言葉遣いが妙に抽象的すぎはしないか。

 

また、「今日も」という言葉にも注目したい。タイトルが「青春小僧が泣いている」にも関わらず、「青春小僧が今日も泣いている」とサビで歌うということは、「今日も」には何らかの意味が込められている可能性が高い。また、同様に「今日も」が使われているのが、二番のサビの「これが最後って今日も泣いている」の部分である。最後なのに今日も、というのは単純に考えておかしい。

このことから推測すると、「今日も」とは普遍的な視点から、「世の中には青春小僧がたくさんいて、昔から変わらず今日までずっと悲しみにくれている」といったことを表現しているように思われる。その点で、青春小僧=「君」なのではなく、青春小僧とは「君」を含む集合体であることがわかる。

 

以上のことから、サビでは、悟りを得た者が俯瞰的な視点から、青春小僧という青春に心を奪われ苦しんでいる少年を眺めているという情景が描かれていることがわかる。

 

 

この曲のメッセージとは

では、この曲のメッセージとはなんなのだろうか。

要所要所に散りばめられたいろは歌に、その答えはあると私は考えた。先述したように、いろは歌は、この世の無常を説き、悟りを得たならば無常の世に心を流されることもないということを説明した言葉である。

 

青春小僧が泣いている」では、「私」を悟りを得た者、つまりブッダとして描き、「私」目線で「青春小僧」の悲しみを映し出している。「青春小僧」の悲しみとは、悟りを得ていないことから輪廻から脱することができないということ、つまり、何度生まれ変わっても人間は青春を追いかけ、それに傷ついてしまうということを表現しているのではないか。しかも、その描き方は非常に冷ややかであり、エモーショナルな表現は一切用いられていないのが非常に印象的である。いろは歌に示されるように、この世は無常であり、すべての有象無象は確かな姿形が存在しない。それは青春も然りである。悟りを得ることで、青春という形なき夢にとらわれることもないのである。

 

いかがだったろうか

以上が「青春小僧が泣いている」の歌詞の意味の考察である。あくまで私なりの考察なので、皆さんもよかったら考察してみてほしい。

浅いようで、実はめちゃくちゃ深いつんく♂ワールドを是非その身で体感していただきたい。